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ノラ・ジョーンズ非公式ファンブログ
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ノラ・ジョーンズ(Norah Jones, 1979年3月30日 - )は、アメリカ・ニューヨーク生まれのピアノ弾き語りジャズ歌手、ジャズ・ピアニスト。

ジャズのスタイルを取りながら、ソウル、カントリー、フォーク、ポップスなど、米国ポピュラーミュージックのサウンドを取り入れたデビューアルバム『Come away with me』(邦題:『ノラ・ジョーンズ』)が1800万枚を売り上げ、グラミー賞では主要4部門を含めノミネート部門すべてで受賞し8冠を獲得。ビルボードのコンテンポラリー・ジャズ・アルバム・チャートで143週連続1位(2002年3月16日付~2004年12月4日付)を記録するなどの記録を残した。2004年2月にリリースした新作アルバム『フィールズ・ライク・ホーム』は発売後5日目にミリオンセラーとなった。

■■プロフィール■■

インド人のシタール奏者ラヴィ・シャンカル(Ravi Shankar)の娘。ニューヨークに生まれたがすでに母親スーは離婚していた。4歳のときテキサス州ダラス近郊のグレープヴァイン(Grapevine)に移り住み、それ以来膨大なLPレコードを持つ母の強い影響を受ける。5歳のとき教会の合唱団に所属。

7歳のころよりピアノのレッスンを始め、中学のときにはアルト・サックスを吹くこともあった。

「ママが8枚組ビリー・ホリデイ[2]のアルバムを持っていて、アルバムの中から、好きで何度もなんども弾いた曲の入ったディスクを取り出したの。『ユー・ゴー・トゥ・マイ・ヘッド』("You go to my head")が大好きだった」

と語った言葉は有名となり、あちこちに引用されている。ビル・エヴァンスからも、このころ影響を受けている。

15歳の時、郊外のグレープヴァインからダラス中心街に移り住み、ダラスのブッカー・T・ワシントン高校(Dallas' Booker T. Washington High School)でパフォーミングとヴィジュアル・アートを履修。十六歳の誕生日に地元のコーヒーハウスで初のギグを行ない、ビリー・ホリデイの持ち歌『アイル・ビー・シーイング・ユー("I'll be seeing you")』をエタ・ジェイムズ(Etta James)のイメージで歌う。1996年、高校在学中にダウンビート学生音楽賞(Down Beat Student Music Awards)の「最優秀ジャズヴォーカリスト賞(Best Vocalist)」、「最優秀オリジナル作曲賞(Best Original Composition)」を獲得し、翌1997年にも同音楽賞で「最優秀ジャズヴォーカリスト賞」を受賞する。

高校卒業後、ノース・テキサス大学でジャズ・ピアノを専攻。また、ラズロ(Laszlo)という名のバンドで、本人いうところの「ダークで、ジャジーなロック("dark, jazzy rock")」の曲を歌っていた。大学三年の夏、友人に誘われニューヨークのマンハッタンに旅行。

「音楽がわたしを引き留めたの。音楽業界はあまりにも巨大でとても刺激的。特に『ザ・リヴィング・ルーム』(The Living Room, [6])みたいなところで凄いソングライターの曲を聴くのは楽しかったから、あらゆるものが私の能力を広げてくれるように思えて、帰る気にはなれなかったの」

と、のちに語ったように一か月の予定で旅行に出たまま、大学へは戻らずウエイトレスの仕事をしながらマンハッタンで出会ったソングライターたちに刺激を受け、自分の曲を作り始める。1999年12月ごろより一年ほどはファンク・フュージョンのバンド、ワックス・ポエティック(Wax Poetic, [7])と共演する常連になった。まもなく、ソングライターのジェシー・ハリス(Jesse Harris, [8])、ベースのリー・アレグザンダー(Lee Alexander, [9])、ドラムスのドン・ライザー(Dan Rieser)とバンドを結成、ノラはヴォーカルとピアノを担当した。

* デビュー

結成したバンドのデモを2000年10月にブルーノートでレコーディング。これは、のちにブルーノート・レーベルから『ファースト・セッションズ』(First Sessions)としてリリースされたが現在は廃盤になっている。ブルーノート社長ブルース・ランドヴァル(Bruce Lundvall, [10])がこのデモ・テープを聴いてノラの才能に気付き、2001年1月、ノラはブルーノートと契約することとなった。

ノラは2001年5月からクレイグ・ストリート(Craig Street)によるプロデュースでデビューアルバム『カム・アウェイ・ウイズ・ミー』("Come Away With Me" - 邦題: 『ノラ・ジョーンズ』)のレコーディングを開始。同年8月には、ロバータ・フラック(Roberta Flack, [11])、アレサ・フランクリン(Aretha Franklin, [12])、ダスティ・スプリングフィールド(Dusty Springfield, [13])を手がけて定評のあるアリフ・マーディン(Arif Mardin, [14])によるプロデュースとなる。あまりにも高名なプロデューサーがついたので、最初ノラは口を利くのもはばかるほど怖い思いだったが、思いのほか気さくで、たくさんのアイデアを出してくれた、と語っている。しかし、まさか記録的ヒットになるとは、ノラ本人すら思いもよらぬことであった。

2002年2月26日、弱冠22歳でデビューアルバム "Come Away With Me" をブルーノートからリリース。同年4月11日、その日本版『ノラ・ジョーンズ』を東芝EMIからリリース。3月28日にローリングストーン誌が取り上げ[15]、早くも5月にはトップチャートの兆候が現われる[16]。6月、全米ツアーを開始。

日本へも同年4月にはプロモーションでライヴコンサートを行なっており、9月再来日の際には全国5都市のコンサートを成功させ、さらに欧州12都市でのコンサートを行なった。11月にはヴァニティ・フェアー(Vanity Fair)誌表紙に著名なアーティストとともに掲載[17]された。

* グラミー賞受賞

グラミー賞へのノミネートは当然との見方はもとより、何部門でノミネートされるかが関心の的となって2003年1月7日に八部門でノミネート。1月25日、アジア・オセアニアのツアーの最中、米国アルバム・チャートで首位に躍り出し、発売から一年に満たない期間で、米国内での売り上げ枚数は270万枚を越すこととなった。

第45回グラミー賞(2003年2月24日、現地時間は2月23日)でノミネートされていた八部門中、

    アルバム『Come Away With Me』に対し、

        最優秀アルバム賞(Album of the Year)
        最優秀ポップ・ヴォーカル・アルバム賞(Best Pop Vocal Album)
        最優秀録音賞、ノン・クラシカル(Best Engineered Recording, Non-Classical)

    ノラ・ジョーンズ本人に対し、

        最優秀新人賞(Best New Artist)

    曲目『Don't Know Why』に対し、

        最優秀レコード賞(Record of the Year)
        最優秀楽曲賞(Song of the Year (songwriter)、作者:ジェシー・ハリス)
        最優秀女性ポップ・ヴォーカル・パフォーマンス賞(Best Female Pop Vocal Performance)

    プロデューサーのアリフ・マーディンに対し、

        最優秀プロデューサー賞(Producer of the Year)

と、ノミネート全部門での受賞となり、この年のグラミー賞の話題をさらうことになった。このときノラは、まだ23歳であった。


出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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